徒然なるままに №490 フムフム

 

今日は、とある方のツイートを紹介します。

 

 

ツイッターを読み込めない方の為に、一連のツイートを転写します。

 

 

「ある文章を読んで、書いてあるとおりに理解できる」というのは、特別な才能です。ほとんどの人は、「文章を読んで自分が思ったこと」を、「そう書いてあった」と錯覚します。書かれたことと、読み取ったこと。両者は別のものです。

 

「文章を読んで、どのように受け取るか?」そこには幅があります。たとえば、「おやつが美味しい」という一文で。みなさんは何を感じるでしょうか?

 

 

「おやつ休憩できるなんていいな」と思う人もいれば、「暇アピールかな?」と思う人もいます。さまざまですよね。でも元の文章には、「羨ましいでしょう?」とか、「かまってください」とは書いてないのです。

 

 

少し角度を変えますね。 「おやつが美味しい」という文章を書いた人ではなく、「読んでいる人」に注目します。その人が今、ご病気等で食べ物の味がわからなかったら?その人が今、お菓子作りが趣味のパートナーと喧嘩中だったら?「おやつが美味しい」という文章に、それぞれ何を感じるでしょうか?

 

 

「おやつが美味しい」というシンプルな文章にも。「自慢げ」「かまってちゃん」「羨ましい」「悲しい」そんな、さまざまな感情が波立つことがあります。それは、「書かれた文章」と「読み手の体験」が結びついて現れるものです。

 

 

どんな文章でも、「書いてある情報」と「それを読んだ人の体験に結びついて現れてしまう感想」とには、ギャプがあるということです。これが作品の一文であれば、「読者のこういう体験を呼び覚まそう」と仕掛けることもありますが、日々のツイートでそうかと言うと、わからないですよね。

 

 

「自分の感想」と「書かれた情報」とを分けて考える――これは、特殊スキルです。「感想文」の勉強はしていても、「事実を読み取る」訓練はしてこなかった…という人も珍しくないと思います。なので、「書かれてることと自分の感想は別」――この呪文だけでも覚えていただければと思います。

 

 

引用ツイートで、「自分はそうは思いませんけど?」「こういう場合は、こういう例もあるじゃないですか」と、また別の話を持ち出す人たちが出てくるのも、この辺りでしょう。「自分は正しく読み取れている」=「自分がそう感じたのだから、そう書いてあったのだ」この錯覚です。

 

 

読み手の体感によって現れるさまざまな感想、そのすべてのケースに備えて、誤解なく書いていく…というのは、現実的ではありません。「正しいかどうか採点する」「間違いがないように監視する」そんな風に、文章に接するのではなく。すっと心に入ったものだけでも、と思います。

 

以上 生田美和さん(@shodamiwa)のツイートから

 

 

 

今は情報過多の時代です。

 

 

ネットにテレビ、新聞・雑誌等から、あらゆる情報が発信されています。

 

 

そして、その情報に対する様々な意見が飛び交います。

 

 

「違うだろぅ~(豊田真由子風)」

 

「いい~ね!(横山剣風)」

 

 

等、受け止め方はひとそれぞれ。

 

 

日々好き勝手に書きなぐって公開している私の記事にも、いろんなご意見があると思います。

 

 

皆さん、遠慮していらっしゃるようで批判のコメントは皆無なのですが、「こいつ🐴🦌だよねぇ~」とか「アホちゃうの?」等、酒の肴にでもして笑い飛ばしていただければと思います。

 

 

“Any Way You Want It”
邦題:お気に召すまま
(1980年)
Journey

 

オヤジK

 

コメント (0)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です